阪神・淡路大震災体験談⑥
⬛️学校開始
震災から4日たった頃、学校は再開された。
被災地は授業再開どころか体育館、教室は避難所として開放されておりそれ所でない。
久しぶりに会う友人達も心なしか疲れているように見えた。
1月の後半からは、ちょうど時期的に高校受験と重なるが被災地は受験なんて言ってる場合でない状態。多くの私立高校はノ一試験で内申書のみで合否判断して合格通知を出していた。それは神戸市内にあった被害が少ない垂水の中学校にも同様の措置が行われた。
親戚の家に避難してきた長田区などの中学3年生は受験のために転校してきたりした。ちなみに、卒業式には何人か?知らない制服の違う同級生がいた。きっと地震がなかったら元いた中学校で卒業式を迎えたに違いない。
公立高校の入試がある3月になる。震災から2カ月が経過していた。電車も所々普通はあるものの少しずつだが平常運転を行うまで復旧していた。
電車で須磨の方にある高校へ入試を受けに向かった。
山陽の東須磨駅を降りて歩いて受験する高校へ向かう。駅周辺は震災の爪痕が色濃く残っており明らかに自分の住んでいる垂水区とは空気感が違う。同じ神戸‥いや一山超えたらこんなに被害が違うのかと思った。
瓦が散乱している道。火災被害のあったであろう黒焦げた家。45°くらい傾いて部屋が剥き出しになって残っている崩れているマンションなども目に入る。そんな中、公立高校の入試を受けに行ったのだ。
⬛️春‥高校入学
結局公立は、不合格になり併願で受けていた私立高校に行くことになった。
震災で私立高校の試験は行なわれなかった為、一度も訪れた事のない高校に行く事になる。
とても不思議な感覚。
降りた事のない駅。
歩いた事のない道。
嗅いだ事のない街の匂い。
眺めた事のない街並み。
どんなに街はボロボロでも桜は咲いていて
新学期、新生活、新たな気分になっていた。
通う高校の最寄り駅の近くは震災でも被害が大きかった地域である。特に新長田駅周辺は、地震で崩壊を免れた建物は残りそれ以外は更地にされていた。焦げた自動車が取り残されている。歴史の資料集に載っている終戦後の空襲にあった街の写真みたいに見えた。最初は驚きもあるがその風景も当たり前のものになる。
板宿のパックリ割れた地上駅のホ一ム
割れたアスファルト
粉々な道タイル
隆起したデコボコな路地
通行止の迂回渋滞
取り壊しの工事の騒音や砂埃
こんなモノまでもが当たり前になっていく。
毎日のように板宿駅から高取山に向かって延々と続く坂を登る。何日も、、、何日も、、、。
そしていつも、高台から見える神戸の街と海はいつも青々して光って見えた。
気づかないうちに当たり前になっていた街の傷が塞がってかさぶたになっていた。
家をなくした人のために仮設住宅が建てられ、復興住宅が建設され、割れたアスファルトも工事され、崩れた家も更地に変わっていった。
そして自分は、かさぶたの取れた姿を見る事なく高校卒業と共に神戸を出た。
⬛️最後に
阪神・淡路大震災から25年経った神戸の街は震災前の姿とは違う姿で生まれ変わった。良くあの震災の教訓を後世に残すようになどと大きな事を言われている方がいらっしゃいますが、教訓なんて事や防災対策などは国やその道のプロが行うべき事であるので自分のような庶民には考えるに至らない。失った物や悲しみなんて戻りはしないので辛くて厳しくとも前に進まないといけない。進む為に助けてくれる人はやっぱりいて、そんな人の助け合いによって神戸の人々は25年歩んできた。今の神戸の街並みは震災からの歩みそのものやと思います。
1年に1度自分達の中で人と人の助け合いの気持ちの大切さを再認識するきっかけとして1.17そして3.11は、忘れていけない日にしましょう。
この日にこそみんなで「満月の夕」を歌いましょう。
終わり。
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阪神・淡路大震災体験談⑤
⬛️ス一パ一で食料品の調達
震災から3日目。食料品を買う為に地元のス一パ一に行く。
もちろん数台しか無い駐車場は停車できるわけもなく歩いて向かう。
地元のス一パ一は人でごった返していた。入り口に入るのも時間がかかるほどの長蛇の列。ようやく自分達が入店できたが棚に食料品はほぼなく、探して手に取れたのは板チョコと挽肉のみ、、レジで会計を済ませて帰宅。気づけば3時間も経っていた。
今考えれば物流もマヒ状態で商品も入らない状況で地域の方の為に必死で営業してたんだと思う。みんなで助けあってなんとかしようとしていたんだなって思う。
ちなみにしばらくして物流が少しずつ復旧してくるとス一パ一に商品は戻ってきました。
自分の住む垂水は直接的な被災地ではないので
その辺は恵まれていたようです。
⬛️ガスも水道も止まっている生活
垂水区は神戸市だが被害は須磨区や長田区ほどではなく生活に必要なガス・電気・水道などは早くに復旧された。ガス管の亀裂による自衛隊出動騒動は稀にあったがその辺は恵まれていた。しかし、自分の住んでいた地域は垂水だがガス水道は隣接する須磨区のラインにあるため復旧が2カ月〜3カ月遅れた。
「水について」
近くの公園の水道の水は出るのに我が家の水道の水は出ないという残念すぎる状態。生活水を公園に汲みに行く生活を行う。
「ガスについて」
ガスコンロは、日々の生活で欠かせないアイテムになっていた。料理と顔洗うためのお湯に使うのだ。無論風呂は使えないので濡れタオル又は銭湯に通うという生活が続いた。
銭湯はいつもテ一マパ一クばりの長蛇の列。数時間待ちなんてざらの世界でした。そんな時、並ぶのが嫌なオトンが地図で調べて穴場を探し出した。(当時はスマホないので情報が地図とかになる)地図を頼りにたどり着いたのが明石のある銭湯。珍しく並んでいない。穴場や!
そんな期待も入った瞬間に打ち砕かれる。
「背中に龍」「鬼」「鬼」「鯉」「龍」「龍」「龍」!
どうやらこの銭湯は、そっちの方の御用達銭湯であったようだ。お客が少ない理由も分かる。ガチ目刺青は、中3男子には刺激が強すぎました。
ある事が当然と思っているものが無くなると大切さに気づく事ができる。しかし慣れたら忘れがちになってしまう。今一度あの覇王色を見にまとった方達しかいない銭湯を思い出そう。
続く。
阪神・淡路大震災体験談④
⬛️東の夜空が赤く染まる
震災から2日目。流石に学校は休み。オトンも家で待機。
片付けに追われる。
一向にガスと水道は復旧しない。
ポリタンクで自衛隊の給水車からもらってきた水を風呂の湯舟に貯めていた。
水で顔を洗うのはめっちゃ寒い。
家の猫は地震が起きた直後から行方不明になっていたが24時間振りに帰ってきた。怖かったんだろうか?何処かで隠れていたようだ。
流石に風呂に入りたいと垂水の駅前にある銭湯に行くことに、、、。車で駅前に向かう。
時間は夜の10時。
車から流れるラジオからは被災状況と亡くなった方の名前を読み上げるアナウンサーの声。
悲しみと不安しか感じられない。
鈴木橋を抜けて国道2号に差しかかる所で東の空を見て驚いた。
空が赤い。
空が赤く暗闇を照らしている。
長田の街は震災から1日経っても火災が収まる事がなく未だに燃え続けている。
遠くからでも分かる悲惨な風景。
絶望感までいかないがそれに近い感覚は忘れる事ができない。
その後、銭湯に到着。お風呂を求める人達の大行列。銭湯の人が必死にボイラーを回す。「ボイラーを止めるな!」って声が外まで聞こえている。その後風呂に入ったが「赤い夜空」見たショックか全く記憶にない。
阪神・淡路大震災体験談③
⬛️震災から1日目の夜
兵庫区に会社のあるオトンは10時頃に車で帰ってきた。
生きていてよかった。
オトンは涙ながらに帰り道で見た惨状を語る。
「長田らへんは家がペシャンコなっている」
「火事になっている火を何個も見た」
「道も隆起してデコボコで怖かった」
「走れる道を探り探り帰って来た」
などなど、とても危険な場所を命がけで帰ってきたのが分かった。
「コンビニに行ったら店員が商品を店の前に並べて持っていってくださいって」
おにぎりが4つと菓子パンが2つ
これをもらってきたみたいだ。
部屋の片付けをしていたら気づけば、震災から7時間程経過していた。電話で親戚などの安否は取れた。幸運にもうちの家で大きな被害にあった親戚はいなかった。
明日からの学校もオトンの会社も先は全く見えない。
そもそも電気は復旧したがガスと水道は一向に復旧のメドが経っていない。
そして寒い夜を迎える。
余震は続く。その日ばかりは家族で固まってリビングで寝た。
続く。
阪神・淡路大震災体験談②
⬛️空から降る黒い雪
震災発生して4時間が経過。
オトンはまだ帰って来ない。
家の裏にある高台の公園に行くと近所の人も多く集まっている。
「長田の方は壊滅状態や!」
「阪神高速が倒れているらしいで」
「水とガスも止まっている」
など不安をよぎらせるネガティブな情報交換を行なっている大人たちの話声が聞こえる。
うちの家は辛うじて震災後2時間で途切れ途切れながら電気が復旧していたのでテレビから情報を得る事ができていた。
震源地は淡路島。
この高台からは、遠く向こう側に震源地が見える。
そんな垂水の街はなんら変わりない風景に見えた。
空を見上げたら、黒い物体がヒラヒラ舞い降りる。
ん、、、空から黒い雪が降ってきたのか?
違う、、これは黒いススだ。どうやら長田の街から風に乗ってやってきたらしい。
「長田の街が燃えてる。長田からススが風に乗ってここまできてんねん」って大人達は話している。
どうやら月見山から東(東須磨、板宿、長田、兵庫辺り)は壊滅的な被害があったらしい。
月見山より西(垂水区、西区、須磨区の一部)は揺れが弱く被害が少ない事がその時わかった。
あの揺れよりもキツイやつ喰らったんか?
って考えると恐ろしい。
灘区に親戚いるけど大丈夫か?オトンは兵庫区の海の近くに会社あるけど大丈夫か?なんて事が頭の中を駆け巡る。
この高台の公園‥めっちゃ寒い。
続く
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阪神・淡路大震災体験談①
⬛️はじめに
あれから25年経った。この震災体験は年々薄れていく。多感な時期であった中3〜高校にかけて震災で荒れ果て立ち上がろうとする神戸の街で過ごした。その当時は感じもしなかった事が今になって甦ってきました。最近見た新長田周辺は自分の知っている神戸の街とは別世界のように映りました。ここまで頑張って立ち上ったんだって感じました。一回死んだ神戸がここまで復興したのはきっと残されたここに住む人が助け合い、神戸以外に住む人からの助けをもらい、少しずつ少しずつ一歩一歩、歩んだ結果が今の神戸の風景だと思います。
思い出せる範囲で今さらやけど残しておきます。自分の育った神戸を甦らせてくれた多くの人に感謝を込めて。拙い文書表現力ですが‥。
あと、自分は厳密に言えば被災者ではないと思います。震災によって失ったり、傷ついたりしていませんし、自分よりも苦労された方は大勢います。ただその時期に神戸に住んでただけです。たいした経験してませんけど側で見て感じた事や薄れゆく記憶を記したいと思います。
⬛️阪神・淡路大震災の体験談①
私は1995年1月17日当時、中学校3年生でした。当時受験生でAM3時まで勉強していました。(勉強というよりANN福山雅治聴いてた)
そこからうとうととベットに潜り込んだ。
目を閉じて寝ていった。
「ゴォォォォォ」っという音。夢の中で聞こえる。その瞬間目の前の物が浮き上がるような縦揺れ、動ける訳の無い揺れ。家がグルグル回っているような感覚が暫く続きました。揺れを感じながらこれは夢ではなく現実に起こっている大きな地震である事に少しづつ気づく。グネグネ暴れる電球。今にも割れそうなくらいの窓の震え、、頭が真っ白で恐怖すら感じない。
揺れが収まった。部屋の物は散乱‥。本棚も机もひっくり返っていた。もちろん電気もつかないまだ冬の朝6時は暗く何も見えない。
日が昇りはじめ部屋が何物かにひっくり返されたような状態が明らかになる。家は潰れていない、、生きている、、、そこではじめとてつもない恐怖に襲われた。
家族はオカンも弟も怪我なく無事。ラジオもどこにあるか分からないので現状を掴めない。
時あり起こる余震で恐怖と不安に襲われる。
早朝から仕事をしているオトンの心配‥。もちろん電話も繋がらない。携帯が無い時代なので連絡なんてとりようが無い。帰りを待つしか無い。
時計が8時になった時、電気が復旧。テレビをつけた瞬間、テレビの映像を見て唖然としてしまう。
阪神高速が倒れている映像。火災が発生している長田の街。崩れているビル。
変わり果てた神戸の街。
ヘリからの映像は現実見の無い作り物のように見えてしまう。しかしこれが現実。
家が崩れていないのが奇跡のように感じた。
続く
満月の夕について
震災から25年経った2020.1.17
2020年1月17日に神戸太陽と虎にてガガガSP×BRAHMANのツーマン・ライブ"1.17満月のつどい"が行われた。阪神・淡路大震災から25年という節目の年に「満月の夕」を唄ったこの2バンドが神戸でライブを行う意味を考えるととても感慨深い。
https://skream.jp/news/2019/12/brahman_gagaga_117.php
満月の夕とは?
ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」の中川敬と「ヒ一ト・ウェイヴ」の山口洋が共作した楽曲である。
阪神・淡路大震災の惨状、復興への厳しい現実、それらに向き合おうとする被災地の人々の姿が歌い込まれている(震災当日の夜、満月がのぼっていた)。
そしてこの曲は、ガガガSPをはじめBRAHMANなど多くのミュ一ジシャンに歌われるようになった。
※詳しくは、下のリンク参照
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/満月の夕
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震災の教訓を未来へ歌い続ける「満月の夕」
この「満月の夕」という曲には震災後の神戸の悲惨な光景や被災者の現在を受け止めて前に進もうとしている気持ちが、歌詞とメロディに宿っている。被害に遭われた方への鎮魂歌でもあり、残った人間への応援歌であったと思う。あの時から25年前となると震災を経験していない若者も多い。この震災で神戸の街は破壊され、多くの命を失われた。満月の夕は、この記憶を後世に語り続ける曲であって欲しい。この歌が次の世代の若者にも歌われ続けて欲しいと心から思います。
私も阪神・淡路大震災の当時神戸に居た人間なので切に願います。